空回り

noteはもう使いません

先生

 わりと最近まで個別指導のアルバイトをしていました。僕は物事を理解するのにとても時間がかかる人間で、普段はそれが欠点として機能するんですけど、教える側に立つと同じようなタイプの生徒さんと近い視点で授業ができるような気がしています。僕が初めてこの分野を学んだときはここで躓いたからちょっと丁寧に説明しよう、みたいな。

 幸か不幸か、給料の発生するようなものではないにせよ、人に勉強を教える機会はこれまでにもそこそこありました。同級生や弟に頼まれて、教科書とシャーペンを携えてここの説明はこういうことでとかうんうん言ってただけですが。ただ、これにはアルバイトと決定的に違う点が一つあります。相手との関係性です。友人に勉強を教えるときって、相手は友人なんですよ。そりゃそうですよね。ゆえに互いに友人としてのゆるい温度感のまま会話を進められるんですが、アルバイトやお仕事となると大抵は面識のない状態からスタートします。片方は先生として、もう片方は生徒として相手を認識し理解するんです。

 ところで、学校の職員室って入るとき妙に緊張しませんでしたか?僕はしました。特に悪さとかしたわけでもないのに緊張してました。おそらくこれに関しては僕がマイノリティってわけではないと思います。職員室は一例にすぎませんが、基本的に生徒は先生を、ひいては大人を恐れるものだと僕は思っています。ですが、コミュニケーションを行う上であまり相手との間に恐怖の溝はあってほしくありません。とはいえ教師の端くれとしてナメられるわけにもいかない。なのでこのバイトを始めてからは優しく、かつ少し衒学的に振る舞うよう意識していました。結果的にはわりと生徒さんに好かれることができてホッとしています。

 

 つい昨日人と話していたことなんですけど、世の中の大半の人って行きたくて学校に行ってるわけではないと思うんです。かくいう僕もそうでしたし(大学こそ行きたくて行っているんですが、高校まで興味ない科目の勉強は本当に嫌でした)。でも行かないと親に怒られるとか、なにか資格を取らなきゃいけないとか、大卒の肩書がほしいとか、そういうのっぴきならない事情で消極的選択をして学生という身分に落ち着いている人が大半なのかなって思います。なので学校で学んだことなんて大体みんな忘れちゃいますし、そもそも学ぼうとすらしない人もいます。仕方のないことですよね。多分、人生ってサボれるところではサボっておいた方がお得ですし。

 ただ、全然授業の中身は覚えていないのに、ふとした瞬間の先生の言葉や行動が今になってフラッシュバックしてくることが僕はあるんです。保健室で話を聞いて、僕のために動いてくれたあの担任の先生ってすごく優しい人だったんだなとか、ちょっと知的な雑談を挟みつつ休憩をとってくれたあの数学の先生ってすごく生徒に配慮してくれてたんだなとか、今になって思うんです。当時はこの先生話しやすくて好き、ぐらいのスケール感だったのに。「先生」という立場の人には、こうやって生徒に遅効性のなにかを与えられる能力がきっとあるんです。僕はこのなにかを「時限爆弾」って呼んでます。

 個別指導の目的は生徒さんの成績を伸ばすことです。実際に、僕が受け持った子も定期テストの点数が結構上がったらしく嬉しそうに報告してくれました。ただ、教育の神髄はこの「時限爆弾」にあると僕は信じているので、あの子たちが大人になってからも活きるものを果たして自分は忍び込ませることができたのかな・・・?なんて一丁前に考えながら、最近はテトリスをしています。