空回り

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(ポートフォリオ用)大学で書いたレポート①

注:ブログで公開するにあたって、一部内容を修正しています。

レポート課題: 日常で利用しているインターネット上の具体的なサービス(電子メール、ブログ、インターネット ビジネス、サイバースクールなど)をとりあげ、その利便性と危険性・問題点を説明しなさい。また、 それらの危険性や問題点を回避するための対策を考え、具体的な例を挙げて説明しなさい。

本文
本稿では、日常で利用しているインターネット上のサービスのうち、生成AIについての利便性や危険性、問題点を論じていく。
 近年、我々の社会を取り巻くAI技術は凄まじい勢いで進化を遂げている。市場に流通するハードウェアの性能も大きく向上し、手元にスマートフォンが一台あればチャットAIと会話ができて、パーツにこだわれば一般の家庭でもローカル環境に機械学習モデルを実装することが可能になった。
 中でも際立つのはOpenAI社が2022年に公開した対話型AIである「ChatGPT」であるが(1)、生成AIのできることは対話にとどまらない。同年にミュンヘン大学の開発グループによって公開されたStable Diffusionはtext-to-image、つまりプロンプトを入力することで画像を生成するAIである(2)。極めつけは先月OpenAI社から公開されたばかりのSora 2であり、これは使用者の命じた内容の動画を生成するAIサービスとなっている(3)。いずれの出力した文章、画像、動画も非常にクオリティが高く、一瞥した程度では人間の作ったものと見分けがつかないほどだ。自然言語をプロンプトにするため、誰がどう使っても完成度の高いものを出力してくれる生成AIだが、そこに多くの落とし穴が存在する。
 AIも万能ではなく、誤った情報を提示することがある。「ハルシネーション」と呼ばれる挙動があり、AIが事実に基づかない誤情報を出力してしまう現象のことなのだが、これは先に述べたChatGPTのような、大規模言語モデルを用いた非常に優れたAIであっても頻繁に起こる。
 以下にその一例を示す。これは私がChatGPTに、ゲーム「ポケットモンスター」シリーズに登場するキャラクターであるレシラムの育て方について尋ねた会話のログである(4)。

  もちろん!🔥
  レシラム(Reshiram)は「ドラゴン/ほのお」タイプの伝説ポケモンで、強力な特殊アタッカーとして知られています。以下は、主に 『ポケモン スカーレット・バイオレット(SV)』環境 と 『ポケモンGO』 の両方について「強い技構成」を紹介します。どちらのゲームで知りたいですか?

  🔹まずは『ポケモン本編(スカバイ等)』でのおすすめ技構成
  【特殊アタッカー型】

  性格:ひかえめ or おくびょう

  特性:ターボブレイズ(相手の特性を無視して攻撃)

  持ち物:こだわりスカーフ/こだわりメガネ/いのちのたま

  技構成例:

  🔥 ブルーフレア(メイン火力/高威力・命中85)

  🐉 りゅうせいぐん or りゅうのはどう(ドラゴン一致技)

  💥 だいちのちから(ヒードラン対策・汎用性高)

  ⚡ りゅうのまい(物理型用)または こごえるかぜ/オーバーヒート/シャドーボール(補助・範囲)

  ポイント:

  ブルーフレア+りゅうせいぐんの火力で多くの相手を一撃。

  特性「ターボブレイズ」により、特性で耐える相手(マルチスケイル・がんじょう等)も貫通できる。

  スカーフ型なら高速ドラゴンとも撃ち合える。


ChatGPTから出力されたこの返事だが、おおむね妥当な内容と言える一方で、例えば「ブルーフレア」なる攻撃技はポケットモンスターには存在しない。このように、もっともらしく事実と異なる情報を話すことは珍しくなく、今回の質問については私が知っているポケットモンスターについての誤りだったため、すぐに気づくことができた。しかし、自分のわからない分野についてAIに質問したとき、その一部に不正確な情報が含まれていても発見することは難しいだろう。一見もっともらしい情報でも、AIの提示した情報は鵜呑みにするのではなく、あくまで参考程度にとどめておくのが望ましいと言える。
 また、画像や動画を生成するAIについては、出力物の内容が既存の創作物と酷似している場合、著作権侵害にあたる可能性がある。例えば、Retrieval-based Voice Conversion(5)という音声変換AIがある。人間の声を学習し、任意の音声を学習元の声に近づけるボイスチェンジャーツールなのだが、使い方によっては本人と区別できないほどの模倣を可能とする。こうした技術が台頭してから、SNSや動画サイト上に有名な歌手や声優をリファレンスとしたカバー音楽、二次創作アニメ作品などが数多く投稿され続けてきた。しかし、当然ながらこのようなAIの使い方は学習モデルとなる者の仕事を直接的に奪う可能性がある以上、歌手や声優の価値そのものを毀損しかねない。本稿を執筆している時点でも、有志の声優らによって「NOMORE 無断生成AI」という運動が行われている(6)。
 シンギュラリティの渦中にいる我々は、個々人のモラルを問われる段階に来ている。なんでも模倣してみせるAIに、何を模倣させると誰にどんな影響が及ぶのか。本来、自身の成熟度を示すためのレポートをAIに代筆させることによって何が起こるのか。技術がいくら発展しても、やはりそれを扱うのは今のところ人間であり、すなわち倫理のコントロールが及ぶ領域に技術はある。現代を生きる我々には、知識と倫理を相補的にアップデートしていくことが求められている。(2139字)

(1)https://chatgpt.com/ja-JP/overview 2025年10月16日閲覧。
(2)https://github.com/Stability-AI/stablediffusion 2025年10月16日閲覧。
(3)https://openai.com/ja-JP/index/sora-2/ 2025年10月16日閲覧。
(4)実際のやり取りのログを添付する。
https://chatgpt.com/share/68f0783e-8f70-8002-960a-4c576e54fe3d 2025年10月16日閲覧。
(5)https://github.com/RVC-Project/Retrieval-based-Voice-Conversion-WebUI 2025年10月16日閲覧。
(6)https://nomore-mudan.com/ 2025年10月16日閲覧。

去年書いたレポートがうまくできてるから載せる

タイトル『空間はいかに目的化されるか――芸術作品から都市空間まで――』

一般に、我々が「芸術」と聞いて連想するのは、彫刻であったり絵画であったり、具体的な物体として形を持つ作品群であろう。しかし、人間の意図や認識によっては、空間そのものや空間でなされる行為までもが作品になりえる場合がある。本稿では、シラバスで指定されたテーマのうち、空間の認識(都市空間、住居など)について、日本国内の芸術作品や文化、都市を例に「空間の認識」によってどう空間の目的が規定されるかについて論じる。
 現代美術において、「インスタレーション」という表現手法がある。1970年以降に発展したジャンルで、作者が展示室などの空間そのものを作品として装飾し、鑑賞者はそこに入ることによって意図や作為をインタラクティブに体験することができるというものだ。例えば、札幌で生まれ育った私は「札幌市青少年科学館」という施設を訪れたことがある。そこで観た(あるいは「体験」した)「ななめの部屋」(1)は、床が15度傾いている一方、柱や壁は床に対して垂直に設置されており、我々鑑賞者が入り込むことによって平衡感覚に違和感をもたらすというコンセプトの元に成立している作品で、まさにインスタレーションと言えるだろう。
 インスタレーションにおいて、空間は作者によって意味を規定され、鑑賞者はそれを体験し、享受する。その一方で、本来空間とは無限の多目的性を持つはずだ。例えば、先述した「ななめの部屋」も、そこが「ななめの部屋」として設計されておらず、トイレとして作られていたらトイレになっていたはずで、あるいは喫煙所として作られていたら喫煙所だった可能性もあり、あるいは札幌という都市が人間によって開発されていなかったら、そこは雑草が生い茂る平原だったかもしれない。気候のような自然的条件を除けば、空間とは基本的に均質であり、人間の認識や目的によって意味を変えていく。
 この原則はインスタレーションに限らない。我々は普段、いきなり街で歌い出したり大声を出したり、踊りだしたりしないだろう。そんなことをすれば通行人の迷惑になってしまうし、街の条例に反するかもしれない。程度によっては罰せられたりするかもしれない。しかし、カラオケでは大声で歌ってもよいし、ダンスホールでは踊ってもよい。なぜなら、その空間が「歌うため」、「踊るため」に設計されているからである。カラオケやダンスホールで我々がトラブルを起こさずに歌ったり踊ったりできるのは、このように目的の限定された空間が我々の行為を保証してくれているためだ。
 そうした点で、都市とは、数多の目的によって作られた大量のセグメントから成る空間だと捉えることができる。JR札幌駅の西口には紀伊國屋書店があり、少し進むとセブンイレブンやカラオケ歌屋、パソコンショップドスパラが見える。いつも歩く街並みを眺望するだけで、全く異なった目的のもとに設計された建物がずらっと並んでいるのがわかる。駅、本屋、コンビニ、歌うために防音がなされたビル、ややニッチなパソコンパーツを売買できるビル、これらひとつひとつが所狭しと横に並び、札幌の土地を物理的な壁で隔て、地方都市という空間をピクセル的に埋めていく。都市を構成する小さい単位という意でピクセル的と表現したが、実際には空間の最小単位はもっともっとミクロだ。
 私は今、デスクトップパソコンに接続したキーボードで本稿を書いている。パソコンは精密機械であり、決して水にさらしたり、強い衝撃を与えたりしてはならない。しかしこの原則は、micro-ATXというパソコンサイズの規格によって設計された、244mm×244mmの小さな空間、およびその周辺にのみ適用されるもので、その外側ではシャワーを浴びてもいいし、一日の終わりにストレッチをしてもいい。空間が目的によって占有されたり、多目的性を限定されたりすることは、ときに規模の大小すら問わず起こり得るのである。
(1)https://www.ssc.slp.or.jp/exhibition#paragraph_101_1704952581

 

※本記事は、大学の課題で書いたレポートを一部改稿の上で公開しています。

そこに僕の居場所はなかった

はじめてアニメ「少女☆歌劇 レヴュースタァライト」を見たとき、まるで香具師の口上を聞いているような気分だった、と今だから言ってしまおう。
 超名門校の聖翔音楽学園を舞台に、舞台少女たちはレヴューに参加し、日々奮闘する。でもそこは、どこまでいっても安心安全な環境で生まれ育ってきた、経済的に豊かな人たちのフィールドで、最後の最後まで僕のような人間の居場所は提示されないままだった。そんな事情などつゆ知らず、キリンはぎょろっとこちらを向いて語りかけてくる。「私たちはもう舞台の上」という口上も、僕のようなはぐれ者は観客席にすら座る場所がないんだよ、というとどめとして機能するのみで、そこに僕の居場所はなかった。
 もちろん、作品の性質自体がそういうものなのだと知っていれば、僕は単に観ないという選択をすることができた。しかし、僕がスタァライトを観たのは2021年頃、まさに劇場版が大ブームになっている待っ最中で、親友や尊敬するクリエイターがほとんどみんな大絶賛していたという背景がある。彼らの感動に地方の人間や貧しい人間は不要だった、と書くとすごく露悪的だろうが、少なくとも友達みんなに薦められて観た僕には、その程度のショックはあった。僕のような人間を不要とする物語が、他でもない僕に向けられたことの悲しさを共有できる相手は、だれもいなかった。

 伊藤計劃虐殺器官』の主人公、クラヴィスはたびたび「死者の国」を訪れる。彼は兵士としての任務を遂行できるよう、未来の技術で感情や痛覚にマスキングを施されるが、それでも四肢の欠けた亡者たちの列に加わる夢――すなわち「死者の国」――から逃れられない。そして、現在もなお進行形で、僕はよく似た体験をしている。
 教育虐待を受けて育った僕にとっての戦場は学校だった。気がつけば自分は高校生で、模試や定期考査がすぐそこまで迫ってきている。けど、試験範囲の勉強は全然追いついてなくて、このままでは大変なことになってしまう、とんでもない点数を取ってしまう。第一志望の大学にいけなくなってしまう。自分の生きている意味はまるごとなくなってしまう。このままでは、このままでは。

 いつも決まって、ここで目が覚める。

 今の自分が大学生であることを思い出す。高校を中退したことを思い出す。ハングマンズノットの結び方を覚えた夜を思い出す。精神科に通院していることを、カウンセリングを受けていることを思い出す。もう、受験戦争からは解放されたという事実をゆっくりと認めて、たくさんの脂汗とともに僕は現実に戻ってくる。けれど、こんな描写は、こんな絶望の質感は、聖翔音楽学園には不要である。「死者の国」を訪れたものは、きっとあの場所にはいないのだから。そういう意味で、やはりそこに僕の居場所はなかった。
 相棒のウィリアムズと共に、クラヴィスは「プライベート・ライアン」の冒頭15分を、デリバリー・ピザを片手に流し続けていた。なんのことはない。地獄には地獄の娯楽があるように、僕には僕の娯楽があるという、それだけの話なのだと思う。

「転生」というもうひとつの地獄――我々は更生できるのか――

ハズビン・ホテルへようこそ」というアニメがある。生前、罪を犯して悪魔に生まれ変わった者がやってくる地獄は、過密や治安の悪化に悩まされていた。これを解消すべく、天使たちは一年に一度、エクスターミネーションという名の虐殺行為を行い、増えすぎた悪魔の数を減らしていく。そのやり方に胸を痛めた主人公・チャーリーは、地獄の環境改善を目的に悪魔の更生施設、「ハズビン・ホテル」を仲間たちと共に設立、運営することになった。

アラスターが好きです

 チャーリーが信じていたのは「更生」だ。悪魔、すなわち罪を犯した者たちもきっと更生できる、やり直せる……。そんな彼女の願いは、なかなか天国の者に理解してもらえない。

 人間の更生は可能か、不可能か。この命題について、現実を生きる我々は様々なシーンで遭遇する。あるときは法律に、あるときは倫理に、あるときは構造によって、それは語られる。命題が提示する無数の観点のうち、本稿では昨今のインターネットを生きる我々にとってこの上なく卑近なトピックのひとつである、「転生」についてフォーカスしてみよう。

 本名という識別子を明かさないインターネット上において、我々はいつでもSNSのアカウントを削除し、新しく作り直し、名義を新たに別人として生まれ変わる――「転生」する――ことができる。バーチャルYouTuberが問題を起こし、雇用先との契約解除に至っても、自分の意志や責任のもとに新たな3Dモデルを用意すれば「転生」できるし、グレーな二次創作を続けていた者が一次創作や商業制作の開始にあたって、経歴をクリーンにするべく「転生」するような事例も枚挙にいとまがない。「転生」という行為は、過去の失態や隠したい出来事をマスキングするために行われる場合がほとんどだ。

 たしかに、覆水は盆に返らないが、こぼした水の拭き掃除はできるかもしれない。圧倒的な不可逆性を持つ過ち、たとえば殺人のように、いくら行為者が罪と向き合い、謝罪や反省を尽くそうと失われた被害者は帰ってこない事例もあるが、こと「転生」についてはその限りではないだろう。周知の事実として知れ渡っている「前世」についての釈明や謝罪は、あたらしい名義に生まれ変わった後でも可能であるし、グレーな創作に手を染めていた者も、シーンの在り方に与える影響を最小限にとどめて言及するチャンスはきっとあるはずだ。

 チャーリーは地獄の悪魔すら、過ちを認めて更生させようと奮闘する。人間から悪魔に生まれ変わったあともなお生まれ変われる、少なくとも彼女はそう信じているが、果たして現実の「生まれ変わった」人々はどこまでその期待に応えられるのだろうか。私たちが住むこの世界には、地獄と違って意地悪な天使たちもいないし、更生のための手続きがシステマティックに用意されている。

 「転生」はひとつの歴史の断絶であるが、現実は事実の連続体であり、それを否定することは原理的に不可能だ。現実に依拠した我々の物語は、これからも我々の意志によって語られ続けるのだから。

僕は動画を作れないし、AIは「呪い」を解くかもしれない

創作というのは、基本的にゆとりがないと取り組めないものだと思う。

 数日前、寝る前にぼうっとニュースを見ていた。横浜の闇バイトに関与した疑いのある夫婦についての報道で、どうやらこの人たちには子どもがいるそう。親(監護者)が逮捕された子どもは、児童福祉法に則り児童相談所に一時保護される。その後は親戚に引き取られたり、あるいは他に身寄りのない子であれば児童養護施設に入所することになる。生みや育ての親が罪を犯すということは、子どもの心に想像を絶するほどの深いトラウマを残しうる。

 さて、僕はというと、また違った背景や事情のもとにトラウマや精神の疾患を抱えている。抗不安薬正露丸、胃腸薬は場所を問わずマストアイテムだし、それでも発作を起こすときは起こす。倒れるときは倒れる。音MADが創作と呼べるかはさておき、冷や汗まみれの身体でREAPERを起動することは多分できないし、動悸で震える手で合作辞退の連絡でも入れれば、こいつ危ない薬でもやってるんじゃないかと疑われかねない(ただでさえOD経験が複数回あるって話だ)。つまり、いろいろと困難を持つ僕が創作者でいられる時間は、おそらく健常者より少ない。親の犯罪によって人生に困難を抱えることになった子どもたちにとっても、健全な家庭で育った者に比べたら、創作行為なんて遠い遠い世界の話かもしれない。時間や経済状況、精神、自分を成すありとあらゆるパラメータがゆとりの幅を保っていないと、多分、創作は完遂できない。

 創作が対価にゆとりを要求する、すなわちゆとりがないとなかなか創作に取り組めないのは、端的に完成までのプロセス一つ一つが重く、大変だからだと思う。たとえば映像作品であれば、まずコンセプトや構成を大まかに決める段階で、膨大なリファレンスのキュレーション、観た要素のパラフレーズとでも言うべき情報の洪水を泳ぎ切る必要があって、それってとんでもない認知負荷がかかるはずだ。あくまで映像は例であって、ほとんどすべての創作において観察と構築の関係は切っても切り離せないように感じるし、やっぱりそれってすげー大変だと思う(現に、僕もすごく余裕のあるときしか動画を作れない)。なら、そのプロセスが外的な要因によって簡略化されたら、どうなるだろう。昨今は生成AIが台頭してきて、RTXシリーズのグラボをぶん回せば、紙もペンもクリスタもいらずに一枚の絵ができてしまう。そして、これはシンギュラリティだとかこんなの創作じゃないとか、きまっていろんな毀誉褒貶や問題がついてまわる(僕も全ての作業工程をAIに投げて作られたものについては、今のとこそんなに惹かれていないぶん、批判する人の気持ちもわかる)。

 『プロトコル・オブ・ヒューマニティ』は、バイク事故で片足を失ったダンサーが、AI搭載の義足で再びステージを目指す話だった。作中のAIは自律して話すわけでもなく、意識やクオリアのようなものを表示することもなく、単に学習した使用者の歩行データから、「あっ、今重心が前向きにかかってるから、次はこっちの足を出そうとしてるんだな」って具合に、予測した進路にすっと動いてくれる。けど、主人公の護堂恒明が志すのはコンテンポラリーダンスだから、いつも歩くことばかり義足に考えられては困る。コンテンポラリーダンスという芸術において、恒明はAIとの共生を強いられる。

 創作においてAIと言うと、学習モデルやクリエイターの権利なんてくそくらえで、ひたすら利己的にゲームの支配者側に立とうとする連中がふっとみんなの脳裏を過るかもしれない。けど、いろんな障壁を乗り越えてAIが便利な補助ツールとしてうまく機能してくれれば、同作のような歩み寄りが可能になるかもしれない。

 作者の長谷敏司が、Twitterで結構面白い話をしている。

>>AIに作らせて加筆ではなく、手書きでのリビドーのビジョン化ありきです。

 僕の理想とするAIの使い方はまさにこの通りで、ここから派生した引用RTやご本人による返信も貼るのだけど、

>>誰にも読まれない作品なら、単なる資源と電力とストレージの無駄遣い

 この手の、端的に言ってくそな感想も無視できないほどには数あって(面白さや生産性なんかに僕らの愚行権は侵害されない)、しかし長谷敏司本人からはわりと重たい回答が来ている。

>>「ものづくりに呪われる」ことはわりとある

>>社会にとっての生産性ではなくても、本人にとっては、1本書くことで救われることはあるんじゃないかと

 僕が5年近く作っている音MADについては、幸運にも作品がちょっぴりバズったり、以前から大好きだったクリエイターさんから褒められたりして、今でこそとことん満たされていながらも、それ以前(音MAD駆け出しの頃)は同世代に凄腕の作者がたくさんいたこともあり、「自分もなにか作らなければ」という焦燥感を、技術もその磨き方もわからないままに抱いていた時期が確かにあった

 当時、2021年頃まではまだあまりAI技術の波が音MADの界隈に来ていなくて(実装のすげーだるいspleeterがあったかな、程度)、例えば2024年11月現在、かつての自分のような悩みを抱えている音MAD作者には楽曲のボーカルをぶっこ抜いてくれたり、何ならstem単位まで分割してくれるUVRというフリーソフトがあるわけで、言うまでもなくこれはAI技術を用いたツールである。では、UVRを制作過程で用いた音MADはStable Diffusionで「生成」したイラスト同様、忌避されているのだろうか。いや、今のとこそんなことないし、そもそも制作の一過程にすぎない音源の分割について、AIを用いたかそうでないかなんて、完成品を観たところでほとんど区別できない。ではOzoneプラグインによってマスタリングされた音楽は。DLSSやFSRによってフレーム補完のなされたモンハンワイルズは。いずれも気持ち悪さを抱く人の数は、AIの出力するイラストに比べてずっと少ないように思える。

 もっと踏み込むなら、たとえば完全に人間の手で作られているイラストでも、いわゆる「マスピ顔」に限りなく近いような、容易にシミュラークル化されるものを見て、僕らは非AIだと断定できるのだろうか。画像はピクセルの集まりであり、ピクセルの色はRGBのようなカラーフォーマットに基づいて数字で表現される。それらを文字通り「観る」ことしかできない僕らの目では、たぶん、AIと非AIの作品をヒューリスティックに区別するのはほとんど不可能と言っていいし、言い換えるなら、僕らが持つAIへの忌避感は、正確にはAI「らしさ」への忌避感である。

 つまり、AIに抱く「気持ち悪さ」なんて恣意的だし信頼できないし、結局僕らはほどほどにAIに頼っていった方が幸せになれるのではないだろうか(あるいは、そうせざるを得ないというべきか)。それこそ、僕のように障害を抱えて生きる人間や、親が犯罪に加担してしまって心に傷を負った人間だって「ものづくりに呪われる」可能性はみんなあるわけで、AIの手を借りて「呪い」から逃れられる、すなわち創作行為のハードルが大きく下がるのであれば、単にありがたい話だと思う。AI義足で再びステージに立とうとした護堂恒明のように、どんな事情や困難があろうと、僕らがみんな簡単に創作や表現をやれるようになったら、少しだけ世の中が楽しくなるかもしれない。

「そんなことは野実も知らない」コンテまとめ


ほとんどのことは上記ツイート、および編集後記に載せてあるけれど、それにも載せきれていない紙のコンテ
橋本麦さんのツール論に影響を受け、AviUtl上で文字をこね回すのを1度ストップしてタイポグラフィデザインを集めたり、紙に直接描いてみたりしてみたら上手くいった