空回り

noteはもう使いません

「推し」が怖い

 「推し」という言葉が膾炙してどのぐらい経ったのだろう。僕が高校生になった辺り、おおよそ5年前ぐらいから少しずつ世に浸透していったような、そんな記憶がおぼろげながらある。そして率直に言って、僕は「推し」という言葉や文化への強烈な忌避感というか、恐怖がある。

 一般に、推しという表現は性愛と切っても切り離せないものだと思う。ある人にとっての「推し」は容姿も声も可愛らしい声優さんだったり、アバターがカッコよくてゲームの上手いVtuberさんだったりと、まあ多種多様なかたちで存在しているけれど、性的な魅力を1ミリも感じずにその人を好きになるというパターンは、こと「推し」文化においては少数派なのだろうという気持ちが実感としてある。僕は男性で異性愛者だし、大好きな男性ゲーム実況者とか小説家もたくさんいるけれど、そうした存在のことを「推し」と形容するケースを僕はあまり見たことがない。

 そうして少ないサンプルから帰納的に考えていくと、「推し」というものはどうやらおおむね「(私の好きな)アイドル」と同義っぽい。英語のidol(偶像)が転じて、和製英語(?)としてのアイドルという語が生まれたって話を聞いたことがあるけれど、実際のアイドルや推しは偶像でも神様でも何でもなく、どこまでいっても1人の人間だ。それだけにすべての「推し」は不祥事を起こしうるし、彼らには恋愛や結婚をする権利だってある。

 一方で、やんわり好意を寄せていた「推し」にパートナーがいることが判明したり、スキャンダルが明かされたりすると、一部のファンはほんの少しだけ(あるいは猛烈に)悲しくなる。「ファンなら推しの幸せを素直に喜ぶべき」みたいな論調も根強く支持されているけれど、全てのファンにあまねく笑顔を振りまいていたはずの「推し」はやっぱりみんなのものなんかじゃなくて、結局僕らみたいな有象無象よりもはるかに健全で素敵な相手と結ばれていく、そんな至極当たり前の現実をいきなり突きつけられるのは、目の前でミッキーマウスが着ぐるみを脱ぎ捨ててしまうような虚しさにどこか似ている。

 「推し」の熱愛報道に対して「お前なんかがワンチャン付き合えるとか思ってたのかよw」みたいな冷笑をふっかけてくる人もいるけれど、それもからっきし的外れで、ファンの9割以上はきっとそんなこととっくのとうに分かってる。その上で、ああ、やっぱこんな素敵な人にパートナーがいないわけないもんね、僕たちははじめからただ泡沫の夢を見ていただけだったね、みたいな、ふわっとした疎外感の再認識こそがこの辛さの核だと僕は思っていて。明確な「推し」こそできたことはないものの、僕自身この気持ちは何度も経験したことがある。中学生、高校生のころに。

 特にクラスで慕われていたわけでもなく人気者だったわけでもなく、教室の隅っこでさっさと弁当を平らげて英単語帳をめくるような日々を送っていながらも、当時の僕には好きな人がいた。けれど、全然イケてないオタクの恋が成就することなんてないのは百も承知していて、いつのまにかその人には彼氏ができていた。そんなことが何度もあった。

 強がりでも何でもなく、本当に僕は初めから両思いになれるなんて思ってもいなかった。キモいやつから好意を寄せられる相手が可哀想だとすら感じていたし、その気持ちは一貫して誰にも明かさなかった。好きな人を傷つけてしまうのが怖かった。それでも、それでもやはり好きな人がいつの間にか、僕なんかよりずっとイケてる男の子と懇意にしている姿を目の当たりにするのは辛かった。悲しかった。昨今の「推し」、すなわちいつか僕らの元から旅立ってしまうことが約束されている(いや、元から僕なんかと同じ世界にはいなかったのかもしれない)生きた偶像への崇拝は、僕にとっては辛い青春の再演でしかなかった。って思う。

 

*好きな架空のキャラクターとか、性愛の対象でない他者を「推し」と形容するのはまた違った理由で苦手です。ここでは割愛します。

*あくまでも、こじらせたオタクの原体験から来る意思表示であり、だから「推し」文化なんか廃れてしまえとか、そういうラディカルなはなしは特にここではしていません。