空回り

noteはもう使いません

「病み」の商業化をやめろ!

数日前、Twitter見てたらこんなのが流れてきて

これを受けて、FFがNeruさんのこのツイートを「倫理的だと思う」と評していました。

 ここは僕のブログなので、突然話を僕の方にぐいっと手繰り寄せてしまうんですが、僕はいわゆる「病み」「メンヘラ」的なサブカル表現が嫌いです。ピンと来ないとか、面白いと思わないとかじゃなくて嫌いです。

 理由は単純で、僕が熱い男だからです。3年前までは僕もマインドとしてはそっち寄りというか、長いことちゃんと精神を病んでいて(一方で根暗な男でもあるので夜の街を飲み歩いたりとかはしてなかったんですけど)、各々境遇は違えど本来頼れるはずの人々に頼れないつらさや切なさ、どこまでいっても人生が切り開けないことへの絶望感、希死念慮とかは経験していない人たちよりほんの少しだけわかってあげられるような気がしています。僕はたまたま「病み」の商業性や自虐的な退廃性に完全に飲み込まれることがなく(そして友人らにとても恵まれていたので)、適切な治療にアクセスできたおかげで今は元気にやっていますが、環境因子が少しでも違えば今頃そっち側に不健全な影響を受けて良くない結果になっていた、という実感が当事者の端くれとしてひしひしと伝わってくるんです。

 加えて、不安定だったころの僕は自分自身を救うために、臨床心理や社会福祉といったジャンルに関する本やブログを読み漁っていました。そこで思いがけず、人を直接的・間接的に救おうと努める方々の並々ならぬ熱量を知り、救いがあるかもしれないことを救いに生きていくことができていたんです。本来、精神を病んだティーンに対して大人があるべき姿勢みたいなものを、臨床心理士社会福祉士、学校の先生といった誠実な人々から学習することができたのはマジで幸運ですね。

 

 一般論として、子供に子供は救えません。しかし大人は子供を救えることがあります。大人と子供の間で揺れ動く思春期の子たちを前に、とことんまっすぐ向き合っている大人たちがいる一方で、子供の「病み」の定型をファッションに、商業に、一つのあり方に落とし込んで雑にエモいもの、マネタイズできるものとして扱っている悪い大人たちに憤りを感じているので、僕はそういうものが嫌いです。