空回り

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『プロトコル・オブ・ヒューマニティ』を読もう!

 こんにちは。はじめましての場合ははじめまして。Lixyといいます。僕は数ヶ月に一冊ほどのペースでSF小説を読むのですが、この間読んだ長谷敏司さんの『プロトコル・オブ・ヒューマニティ』が本当に面白く、切なかったのでほどほどにあらすじを語りつつサジェストします。

 

 舞台は2050年ぐらいの日本。主人公の護堂恒明(ごどう つねあき)は素晴らしいダンサーで、コンテンポラリーダンス(現代舞踊。前衛的で、最先端の表現に挑戦するダンス)の第一線で活躍するだろうと誰もが期待していました。彼の父、護堂森(ごどう しん)がかつてそうだったように。

 そんな彼を災難が襲います。バイク事故です。恒明が意識を取り戻したころには首と頭が保護具で固定されており、なんと右足は膝から下を切断されていたのです。幸い、一命を取り留めた彼は順調に回復していきますが、片足を失ってしまった以上、ダンサーとして再びステージに立つのは絶望的でした。

 しかし、失意のなか、ある人物が恒明の見舞いにやってきます。恒明と同じダンスカンパニーに所属する谷口裕五(たにぐち ゆうご)です。谷口は大学でロボット工学を専攻しており、その後にダンスに魅せられたという変わり者でした。彼が持ち込んできたPCを見ると、画面には義足のダンサーがしなやかに、力強く踊る動画が再生されています。恒明はまだ踊れたのです。

 谷口は、恒明に特殊な義足のモニターになることを提案します。なんでも、その義足には高度なAIが搭載されており、使用者の動きを学習することでその人らしい動作を手助けしてくれるとのこと。特に、ダンスのように義足自体に過度な負荷を強いる用例は少なく、開発会社としても恒明の動作データに興味があるようでした。恒明はこれを了承し、再び義足のダンサーとしてステージを目指すことになります。

(谷口)「違う。僕はどんな手続き(プロトコル)がロボットと人のダンスをわけているかを知りたいんだ。ダンスするロボットはたくさんできたが、人間のダンスは何かが特別だ。僕らは、人間のダンスから、人間の生の熱気を確かに感じる。それはきっと、隠れてはいるけど、僕と護堂みたいな別々の人間のあいだで人間性を伝えている、正しいプロトコル(手続き)が存在するからだ。僕は、そのダンスが人間性を伝える謎を、解きたいんだ」
 恒明の胸に、腹の底から噴火するように、熱がこみあげてきた。
「おれのダンスに、そのプロトコルはあるか」
「護堂恒明のダンスには、それがあった。足を失っても、新しいそれを、君はきっと見つけ出す」
 理由がわからない涙が、こぼれおちた。

(本文18ページより引用)

 そんな中、追い打ちをかけるように第二の悲劇が訪れました。果たして恒明たちは、ダンスを取り戻すことができるのでしょうか。義足に搭載されているというAIとうまくやっていけるのでしょうか。新たに直面することとなる人生の課題と、どこまで向き合っていけるのでしょうか……。

 

80ページまで(このブログでいうところの「第二の悲劇」の始まりぐらいまで)試し読みができるみたいです。ぜひご覧ください。

【試し読み】右足を失ったダンサーとAI義肢との共生。それは、最も卑近で最も痛切なファーストコンタクトの始まりだった──長谷敏司『プロトコル・オブ・ヒューマニティ』|Hayakawa Books & Magazines(β)

あと、本書はまだ文庫化されていないのですが、12/1(金)までKindle版がセール対象で700円ぐらい安く買えるみたいです!もっと早くこの記事書いておくべきでした(執筆時点で11/28の夕方です)。めちゃくちゃ仕事みたいなサジェストですが、なんの影響力もない一介の大学生に案件なんてやってきません!ハヤカワとかから1円ももらってないです!!

Amazonのリンク

エロい(泣)

 前々から、「エロい(泣)」と感じることがままあって。いや、「エロい(泣)」ってなんだよ、どんな気持ちなんだよと思われるだろうけれど、文字通りエロさと悲しさが両立している状態のこと。まあ具体的な話をしたほうがとっつきやすいと思う。ここから先は下世話なトピックになるので注意。

画像と本文は無関係です

 たとえば、Twitterでエロい漫画とかイラストが流れてくる。でも、シチュエーションはときに現実的ではなくて、男主人公のセクハラをまんざらでもないようなしぐさで受け止め、行為に及ぶとか、何らかの絶頂に向かわせようとしてくるとか、そういうことがある。トートロジーだけど、フィクションはフィクションであり、わざわざノンフィクションに漸近する必要なんてない。けれど、僕はその現実性のなさ、もっと踏み込んで言うと男性にとって都合の良すぎるシチュエーションが苦手で、だからこの手の表現を見るとどうしても文末に(泣)と挿入せざるを得なくて。かくして、表題の「エロい(泣)」に至るのだ。

 何もアダルトコンテンツに限った話じゃない。未だに脳裏に焼き付いているエピソードがひとつある。中学生の頃、友人に勧められて借りたラノベを読んでいたら、男主人公がやむを得ずヒロインと同じ部屋で寝ようとした晩に、その娘がそういう行為をするものだと勘違いして脱ぎだす、みたいなシーンがあって。僕はスケベだし、多分人並みに性欲とかもあるけれど、そうと知らされずに楽しんでいたエンタメが突然エロを持ち出してきたことに完全に冷めてしまって、それ以来ラノベは読めなくなってしまった。男女が同衾するのはエロいけど、別に今はそんなの求めてない。これも「エロい(泣)」のひとつのかたちだ。

 2023年現在も、ありがたいことにオタク友達からいろんなサジェストをいただくのだけど、小説であれソシャゲであれノベルゲーであれ、「エロい(泣)」が発生するコンテンツに僕は今後もきっとノれないのだと思う。対象が実在であれ非実在であれ、僕は間違ってもセクハラ紛いのコミュニケーションはしたくないし、加担したくもない。というと正義感が強すぎるし、多分的を得てない。もっと自己中心的な言い方をすると、アダルトコンテンツ以外でエロを享受したくない。ってだけなんだと思う。突発的なエロさと、そこにエロさを介在させようとした人の手が一瞬でも想像のうちに映り込んでしまうと、僕は(泣)とタイピングせざるを得なくなる。

近況(2023/10/11)

Twitter(CEOの寒いノリに付き合わされるのがダルいから僕は死ぬまでTwitterって呼び続ける)に書くほどでもない/書くには分量が多いトピック。Lixyの活動記録というより、Lixyの中の人の暮らしをほどほどに開示する感覚。

 

オーバーウォッチ2を始めた

7月頃、友人に「なんかめっちゃオーバーウォッチやりたい」って言われて、その場の勢いでインストールしたらわりと楽しくてぼちぼちやってる。他FPSと違って強いやつでも1人でキャリーするのが難しく(僕は全くもって強くないんだけど)、チーム単位でどうエリアを広げるか、どこから仕掛けるか、みたいなことを考えつつプレイする必要があって個人的にはすごく好み。ちなみに僕と一緒にスタートした彼は初日以来全くログインしていない。

 

・好きなアーティストが増えた

Spotifyのサジェストに屈した。具体的には、ひがしやしきにめちゃくちゃハマって、9月はほぼ「4巻.zip」しか聴いてなかったと思う。

元々ラップは好きだったんだけど、メインストリームにあるのは成り上がり女ドラッグ、みたいなリリックが多くて(と感じていて)、僕は不可思議/wonderboyとかGOMESSに代表されるポエトリーリーディングとかを中心に聴いていた。ひがしやしきのラップは別にポエトリーではないんだけど、オタクのグズグズした感情をラップで表現しているなんて!って感動があって。カッコよくないカッコよさが好きだ。

 

・音MAD合作の量を減らした

昔から、規模の大きい合作はどうしても負担になってしまってる。というほどデカい合作にお誘いいただいたこともないんだけど。それと、多分自分は作りたい動画の方向性がそもそも合作というフォーマットに向いていなくて。というのも、僕は1つの動画の中に一貫したテーマがあるものを作るよう心がけていて、けれど大量に人が集められるメドレー合作なんかでは参加者がめいめい作風をぶつけ合う形になってしまう(それはそれで、「音MAD」らしいカオスな良さではあるんだけど)。音MADは好きだけど、今は根詰めて傑作を作ってやろうってほどの意欲は正直なくなってしまった。意欲がないと言うとまた言い訳がましいし、もっと率直に言うと、僕の目指しているものは「音MAD」としては受け入れられにくいのかもしれないって諦念がある。ただ、それはそれとして、僕のやりたいことをうまく取り込んでくれそうな合作にはまだぼちぼち参加したいとも思っているし、お誘いしていただけたらとても前向きに検討すると思う。

 

終わり。

「推し」が怖い

 「推し」という言葉が膾炙してどのぐらい経ったのだろう。僕が高校生になった辺り、おおよそ5年前ぐらいから少しずつ世に浸透していったような、そんな記憶がおぼろげながらある。そして率直に言って、僕は「推し」という言葉や文化への強烈な忌避感というか、恐怖がある。

 一般に、推しという表現は性愛と切っても切り離せないものだと思う。ある人にとっての「推し」は容姿も声も可愛らしい声優さんだったり、アバターがカッコよくてゲームの上手いVtuberさんだったりと、まあ多種多様なかたちで存在しているけれど、性的な魅力を1ミリも感じずにその人を好きになるというパターンは、こと「推し」文化においては少数派なのだろうという気持ちが実感としてある。僕は男性で異性愛者だし、大好きな男性ゲーム実況者とか小説家もたくさんいるけれど、そうした存在のことを「推し」と形容するケースを僕はあまり見たことがない。

 そうして少ないサンプルから帰納的に考えていくと、「推し」というものはどうやらおおむね「(私の好きな)アイドル」と同義っぽい。英語のidol(偶像)が転じて、和製英語(?)としてのアイドルという語が生まれたって話を聞いたことがあるけれど、実際のアイドルや推しは偶像でも神様でも何でもなく、どこまでいっても1人の人間だ。それだけにすべての「推し」は不祥事を起こしうるし、彼らには恋愛や結婚をする権利だってある。

 一方で、やんわり好意を寄せていた「推し」にパートナーがいることが判明したり、スキャンダルが明かされたりすると、一部のファンはほんの少しだけ(あるいは猛烈に)悲しくなる。「ファンなら推しの幸せを素直に喜ぶべき」みたいな論調も根強く支持されているけれど、全てのファンにあまねく笑顔を振りまいていたはずの「推し」はやっぱりみんなのものなんかじゃなくて、結局僕らみたいな有象無象よりもはるかに健全で素敵な相手と結ばれていく、そんな至極当たり前の現実をいきなり突きつけられるのは、目の前でミッキーマウスが着ぐるみを脱ぎ捨ててしまうような虚しさにどこか似ている。

 「推し」の熱愛報道に対して「お前なんかがワンチャン付き合えるとか思ってたのかよw」みたいな冷笑をふっかけてくる人もいるけれど、それもからっきし的外れで、ファンの9割以上はきっとそんなこととっくのとうに分かってる。その上で、ああ、やっぱこんな素敵な人にパートナーがいないわけないもんね、僕たちははじめからただ泡沫の夢を見ていただけだったね、みたいな、ふわっとした疎外感の再認識こそがこの辛さの核だと僕は思っていて。明確な「推し」こそできたことはないものの、僕自身この気持ちは何度も経験したことがある。中学生、高校生のころに。

 特にクラスで慕われていたわけでもなく人気者だったわけでもなく、教室の隅っこでさっさと弁当を平らげて英単語帳をめくるような日々を送っていながらも、当時の僕には好きな人がいた。けれど、全然イケてないオタクの恋が成就することなんてないのは百も承知していて、いつのまにかその人には彼氏ができていた。そんなことが何度もあった。

 強がりでも何でもなく、本当に僕は初めから両思いになれるなんて思ってもいなかった。キモいやつから好意を寄せられる相手が可哀想だとすら感じていたし、その気持ちは一貫して誰にも明かさなかった。好きな人を傷つけてしまうのが怖かった。それでも、それでもやはり好きな人がいつの間にか、僕なんかよりずっとイケてる男の子と懇意にしている姿を目の当たりにするのは辛かった。悲しかった。昨今の「推し」、すなわちいつか僕らの元から旅立ってしまうことが約束されている(いや、元から僕なんかと同じ世界にはいなかったのかもしれない)生きた偶像への崇拝は、僕にとっては辛い青春の再演でしかなかった。って思う。

 

*好きな架空のキャラクターとか、性愛の対象でない他者を「推し」と形容するのはまた違った理由で苦手です。ここでは割愛します。

*あくまでも、こじらせたオタクの原体験から来る意思表示であり、だから「推し」文化なんか廃れてしまえとか、そういうラディカルなはなしは特にここではしていません。

愚行をする権利

that men should be free to act upon their opinions—to carry these out in their lives, without hindrance, either physical or moral, from their fellow-men, so long as it is at their own risk and peril.

(人は、自分の意見に基づいて行動する自由があり、自分がリスクや危険について責任をとることができる限り、物理的にも道徳的にも他者から妨げられることなく、それを実行することができるべきである。) 

(John Stuart Mill(1859), On Liberty, Chapter 3.)

 ほら、あのミルも「自由論」でこう言ってるじゃん。自分で責任をとることができる限り、僕たちには愚行をする権利がある、って感じでここ半年ぐらい生きてる。何も権威的な文をわざわざ引用してきたのは、APEXの死体撃ちとかスプラの煽りイカとか雀魂の溜めロンとか、そういうことを肯定するためじゃない。ただ、僕らはもっとカジュアルに生きてても大丈夫なんだと思う。

 

 最近、TwitterとかYouTubeを眺めてると、あちらこちらでいわゆる「痛い」やつへの冷笑が目に入る。医学部再受験を成功させて患者に寄り添う医師になりたいのに見通しが甘すぎるやつとか、作品はあまり認められてないのにコミュニティでデカい顔してるやつとか、そういうやつらはえてしてシニカルに解釈され、消費されていく(僕は冷笑に加担したくないからわざわざリンク貼ったり名前出したりしないけど)。もちろん、かくいう僕だって人の悪口はいくらでも言うし嫌いな人間だって山ほどいる。だけど一方で、そういう嫌いなものに対して僕は徹底的に情報を遮断するように心がけている。

 冷笑は楽だ。嫌いなやつ、苦手な属性を気まぐれに覗き見て、なんか悪いこととか痛いことしてたら皮肉を言えばいい。晒せばいい。バカにしてやればいい。けど、バカにされる側にだって、やはり人様に迷惑をかけない限り、自分で自分のケツを拭ける限り、愚行をする権利はある。

 

 この論は僕にとって半ば自己保身である。僕は常にうすら「痛い」ことをしているのだという自認があって、何なら今書いているこのブログ記事だってそうだし、過去の言動や行動一つとってもそうだ。自分一人で何かを成し遂げたこともなく、評価に値するような作品をコンスタントに作っているわけでもなく、ネットの友達と作った二次創作の動画がたまたまちょっとバズって、それで何年も調子に乗ってデカい顔してるだけのウジ虫だ。でも、幸か不幸か、そんなウジ虫にもやはり愚行をする権利がある。僕のやっていることは愚行なのだという自覚がある。

 

 僕はよく「何者にもなれない」問題の話をしていて、このご時世、やっぱり絵師とか歌い手とかの何かを生み出す者とか、アイドルとかYouTuberとかの人を魅了する者とか、そういうやつらが耳目を集めるしみんなそいつらになりたがる。でも、何者かになれない俺たちにだってやっぱり愚行をする権利はある。

 世の中の大半の人間なんてどうせ何者にもなれないし、何かにチャレンジしてみたところで失敗する可能性のほうが高い。失敗することが容易に予想できる挑戦なんて、はっきり言って愚行だ。けど、やっちゃだめだなんて誰も言ってないし、そもそもその愚行をやってみないとスタートラインにすら立てない。だから、こいつまた変なことやってんなとか、痛いやつだなとか、そういう冷笑の目を人に向けるのはよして、みんなでせーのでくだらないこととかやってみたほうが、幸せの総和は大きくなるんじゃないかなって思う。失敗したら失敗したで、そのときは憂さ晴らしにAPEXで死体撃ちすればいいし。

敗残者のロジック

前に見たこのツイートがとても印象に残っている。

 あまりこういう言葉を使いたくはないけれど、いわゆる陽キャ/陰キャのような二元論でカテゴライズすると間違いなく僕は後者で、クリークで言うところのナードだったりブレインだったりすると思う。思う、というのは単なる自認と自己保身の表明であり、実際のところ誰から見ても僕は陰キャのナードでブレインだ。この21年間ずっと、何なら現在進行形で。

 と、ここまでは自身を卑下するようなことばかり書いてきたし、実際にこうした僕の社会的立場やパーソナリティへのコンプレックスを抱えていた時期も長く続いていたのだが、ここ2年ほどですっとその呪いが解けたように感じている。

 

 高校生、一般に「青春」と形容される時期の僕はいわゆるブレイン(ガリ勉)だった。肉親からの教育虐待を受けて育ち、完全に視野狭窄に陥ってしまったうつ病患者だったからある程度は仕方ないことなのだけど、当時の僕は高校にマジで勉強以外のことを求めてなくて、なんというかただただダサい尖り方をしていた。勉強こそが学生の本分だと信じてやまなかったし、学祭も体育の授業もサボって(まあ後者は無理しすぎるとパニック発作が起こるから仕方ないんだけど)自習室で英単語帳を読んでいた。高2の始めには、周囲の勉強に関する意識の低さに辟易して(そして、自身の抑うつ症状も強くなっていくのもあって)次第に高校への足取りが重くなり、気がついたらいわゆる不登校になっていた。同年、高卒認定試験を受けてパスして、今は大学生として生活しているものの、不可逆的な時間、それも「青春」と形容されるようやキラキラした時期を、ナードとしてのスティグマや両親からの圧力で完全に失ってしまったことへの後悔は、しばらく僕のメモリを食いつぶしてきたし、同じような悩みを抱える友人も何人か見てきている。

 

 では、なぜ今の僕が自分をほとんど無条件に肯定できているのかと言うと、こればかりは本当にたまたま友人に恵まれていたから、以外の言葉で説明のしようがない。たまたま興味があって拙いなりに始めた二次創作で色んな人と知り合って、たまたま僕を受け入れてくれるコミュニティがあって、たまたまジョハリの窓の第1象限を言語化して伝えてくれた友人がいた。たったそれだけのことだと強く思う。一応、僕は頑張って生きてきたつもりだし、勉強も二次創作もそれなりに努力してきた。けれど、他者からの承認に関する要素をどんどん細分化していくと、その途中には必ず「運」の要素がついてまわる。努力は成功における必要条件であるが、それが単体で十分条件を満たすことは決してない。マイケル・サンデルも似たようなことを言っていた気がする。

 

 ここまでどうでもいいナラティブやありきたりな思想を開陳しておいて、結局何を言いたいのかと言うと、要は自己実現には運の要素が必ずついてまわるということ、自己実現に成功していないからといって自分を追い込んだり 、他者を責めたりする必要はそんなになさそうだということなのだと思う。成功体験は偶発的にやってくるものだからこそ、人事尽くして天命を待っていれば報われる場合だって当然あるし、全くもって見向きもされない場合だって大いにある。僕らの努力の結果はつねに「運」という独立変数に従属し、それはえてして制御不能であり、理不尽だ。だから、まあ、失敗とか成功とか承認とか、そういうものを過度に内面化すると疲れちゃうよね。それだけの話でした。