空回り

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愚行をする権利

that men should be free to act upon their opinions—to carry these out in their lives, without hindrance, either physical or moral, from their fellow-men, so long as it is at their own risk and peril.

(人は、自分の意見に基づいて行動する自由があり、自分がリスクや危険について責任をとることができる限り、物理的にも道徳的にも他者から妨げられることなく、それを実行することができるべきである。) 

(John Stuart Mill(1859), On Liberty, Chapter 3.)

 ほら、あのミルも「自由論」でこう言ってるじゃん。自分で責任をとることができる限り、僕たちには愚行をする権利がある、って感じでここ半年ぐらい生きてる。何も権威的な文をわざわざ引用してきたのは、APEXの死体撃ちとかスプラの煽りイカとか雀魂の溜めロンとか、そういうことを肯定するためじゃない。ただ、僕らはもっとカジュアルに生きてても大丈夫なんだと思う。

 

 最近、TwitterとかYouTubeを眺めてると、あちらこちらでいわゆる「痛い」やつへの冷笑が目に入る。医学部再受験を成功させて患者に寄り添う医師になりたいのに見通しが甘すぎるやつとか、作品はあまり認められてないのにコミュニティでデカい顔してるやつとか、そういうやつらはえてしてシニカルに解釈され、消費されていく(僕は冷笑に加担したくないからわざわざリンク貼ったり名前出したりしないけど)。もちろん、かくいう僕だって人の悪口はいくらでも言うし嫌いな人間だって山ほどいる。だけど一方で、そういう嫌いなものに対して僕は徹底的に情報を遮断するように心がけている。

 冷笑は楽だ。嫌いなやつ、苦手な属性を気まぐれに覗き見て、なんか悪いこととか痛いことしてたら皮肉を言えばいい。晒せばいい。バカにしてやればいい。けど、バカにされる側にだって、やはり人様に迷惑をかけない限り、自分で自分のケツを拭ける限り、愚行をする権利はある。

 

 この論は僕にとって半ば自己保身である。僕は常にうすら「痛い」ことをしているのだという自認があって、何なら今書いているこのブログ記事だってそうだし、過去の言動や行動一つとってもそうだ。自分一人で何かを成し遂げたこともなく、評価に値するような作品をコンスタントに作っているわけでもなく、ネットの友達と作った二次創作の動画がたまたまちょっとバズって、それで何年も調子に乗ってデカい顔してるだけのウジ虫だ。でも、幸か不幸か、そんなウジ虫にもやはり愚行をする権利がある。僕のやっていることは愚行なのだという自覚がある。

 

 僕はよく「何者にもなれない」問題の話をしていて、このご時世、やっぱり絵師とか歌い手とかの何かを生み出す者とか、アイドルとかYouTuberとかの人を魅了する者とか、そういうやつらが耳目を集めるしみんなそいつらになりたがる。でも、何者かになれない俺たちにだってやっぱり愚行をする権利はある。

 世の中の大半の人間なんてどうせ何者にもなれないし、何かにチャレンジしてみたところで失敗する可能性のほうが高い。失敗することが容易に予想できる挑戦なんて、はっきり言って愚行だ。けど、やっちゃだめだなんて誰も言ってないし、そもそもその愚行をやってみないとスタートラインにすら立てない。だから、こいつまた変なことやってんなとか、痛いやつだなとか、そういう冷笑の目を人に向けるのはよして、みんなでせーのでくだらないこととかやってみたほうが、幸せの総和は大きくなるんじゃないかなって思う。失敗したら失敗したで、そのときは憂さ晴らしにAPEXで死体撃ちすればいいし。