空回り

noteはもう使いません

敗残者のロジック

前に見たこのツイートがとても印象に残っている。

 あまりこういう言葉を使いたくはないけれど、いわゆる陽キャ/陰キャのような二元論でカテゴライズすると間違いなく僕は後者で、クリークで言うところのナードだったりブレインだったりすると思う。思う、というのは単なる自認と自己保身の表明であり、実際のところ誰から見ても僕は陰キャのナードでブレインだ。この21年間ずっと、何なら現在進行形で。

 と、ここまでは自身を卑下するようなことばかり書いてきたし、実際にこうした僕の社会的立場やパーソナリティへのコンプレックスを抱えていた時期も長く続いていたのだが、ここ2年ほどですっとその呪いが解けたように感じている。

 

 高校生、一般に「青春」と形容される時期の僕はいわゆるブレイン(ガリ勉)だった。肉親からの教育虐待を受けて育ち、完全に視野狭窄に陥ってしまったうつ病患者だったからある程度は仕方ないことなのだけど、当時の僕は高校にマジで勉強以外のことを求めてなくて、なんというかただただダサい尖り方をしていた。勉強こそが学生の本分だと信じてやまなかったし、学祭も体育の授業もサボって(まあ後者は無理しすぎるとパニック発作が起こるから仕方ないんだけど)自習室で英単語帳を読んでいた。高2の始めには、周囲の勉強に関する意識の低さに辟易して(そして、自身の抑うつ症状も強くなっていくのもあって)次第に高校への足取りが重くなり、気がついたらいわゆる不登校になっていた。同年、高卒認定試験を受けてパスして、今は大学生として生活しているものの、不可逆的な時間、それも「青春」と形容されるようやキラキラした時期を、ナードとしてのスティグマや両親からの圧力で完全に失ってしまったことへの後悔は、しばらく僕のメモリを食いつぶしてきたし、同じような悩みを抱える友人も何人か見てきている。

 

 では、なぜ今の僕が自分をほとんど無条件に肯定できているのかと言うと、こればかりは本当にたまたま友人に恵まれていたから、以外の言葉で説明のしようがない。たまたま興味があって拙いなりに始めた二次創作で色んな人と知り合って、たまたま僕を受け入れてくれるコミュニティがあって、たまたまジョハリの窓の第1象限を言語化して伝えてくれた友人がいた。たったそれだけのことだと強く思う。一応、僕は頑張って生きてきたつもりだし、勉強も二次創作もそれなりに努力してきた。けれど、他者からの承認に関する要素をどんどん細分化していくと、その途中には必ず「運」の要素がついてまわる。努力は成功における必要条件であるが、それが単体で十分条件を満たすことは決してない。マイケル・サンデルも似たようなことを言っていた気がする。

 

 ここまでどうでもいいナラティブやありきたりな思想を開陳しておいて、結局何を言いたいのかと言うと、要は自己実現には運の要素が必ずついてまわるということ、自己実現に成功していないからといって自分を追い込んだり 、他者を責めたりする必要はそんなになさそうだということなのだと思う。成功体験は偶発的にやってくるものだからこそ、人事尽くして天命を待っていれば報われる場合だって当然あるし、全くもって見向きもされない場合だって大いにある。僕らの努力の結果はつねに「運」という独立変数に従属し、それはえてして制御不能であり、理不尽だ。だから、まあ、失敗とか成功とか承認とか、そういうものを過度に内面化すると疲れちゃうよね。それだけの話でした。