創作というのは、基本的にゆとりがないと取り組めないものだと思う。
数日前、寝る前にぼうっとニュースを見ていた。横浜の闇バイトに関与した疑いのある夫婦についての報道で、どうやらこの人たちには子どもがいるそう。親(監護者)が逮捕された子どもは、児童福祉法に則り児童相談所に一時保護される。その後は親戚に引き取られたり、あるいは他に身寄りのない子であれば児童養護施設に入所することになる。生みや育ての親が罪を犯すということは、子どもの心に想像を絶するほどの深いトラウマを残しうる。
さて、僕はというと、また違った背景や事情のもとにトラウマや精神の疾患を抱えている。抗不安薬と正露丸、胃腸薬は場所を問わずマストアイテムだし、それでも発作を起こすときは起こす。倒れるときは倒れる。音MADが創作と呼べるかはさておき、冷や汗まみれの身体でREAPERを起動することは多分できないし、動悸で震える手で合作辞退の連絡でも入れれば、こいつ危ない薬でもやってるんじゃないかと疑われかねない(ただでさえOD経験が複数回あるって話だ)。つまり、いろいろと困難を持つ僕が創作者でいられる時間は、おそらく健常者より少ない。親の犯罪によって人生に困難を抱えることになった子どもたちにとっても、健全な家庭で育った者に比べたら、創作行為なんて遠い遠い世界の話かもしれない。時間や経済状況、精神、自分を成すありとあらゆるパラメータがゆとりの幅を保っていないと、多分、創作は完遂できない。
創作が対価にゆとりを要求する、すなわちゆとりがないとなかなか創作に取り組めないのは、端的に完成までのプロセス一つ一つが重く、大変だからだと思う。たとえば映像作品であれば、まずコンセプトや構成を大まかに決める段階で、膨大なリファレンスのキュレーション、観た要素のパラフレーズとでも言うべき情報の洪水を泳ぎ切る必要があって、それってとんでもない認知負荷がかかるはずだ。あくまで映像は例であって、ほとんどすべての創作において観察と構築の関係は切っても切り離せないように感じるし、やっぱりそれってすげー大変だと思う(現に、僕もすごく余裕のあるときしか動画を作れない)。なら、そのプロセスが外的な要因によって簡略化されたら、どうなるだろう。昨今は生成AIが台頭してきて、RTXシリーズのグラボをぶん回せば、紙もペンもクリスタもいらずに一枚の絵ができてしまう。そして、これはシンギュラリティだとかこんなの創作じゃないとか、きまっていろんな毀誉褒貶や問題がついてまわる(僕も全ての作業工程をAIに投げて作られたものについては、今のとこそんなに惹かれていないぶん、批判する人の気持ちもわかる)。
『プロトコル・オブ・ヒューマニティ』は、バイク事故で片足を失ったダンサーが、AI搭載の義足で再びステージを目指す話だった。作中のAIは自律して話すわけでもなく、意識やクオリアのようなものを表示することもなく、単に学習した使用者の歩行データから、「あっ、今重心が前向きにかかってるから、次はこっちの足を出そうとしてるんだな」って具合に、予測した進路にすっと動いてくれる。けど、主人公の護堂恒明が志すのはコンテンポラリーダンスだから、いつも歩くことばかり義足に考えられては困る。コンテンポラリーダンスという芸術において、恒明はAIとの共生を強いられる。
創作においてAIと言うと、学習モデルやクリエイターの権利なんてくそくらえで、ひたすら利己的にゲームの支配者側に立とうとする連中がふっとみんなの脳裏を過るかもしれない。けど、いろんな障壁を乗り越えてAIが便利な補助ツールとしてうまく機能してくれれば、同作のような歩み寄りが可能になるかもしれない。
小説執筆の「途中で詰まって書けない下手なシーンをAIにまかせる」というのは、描きたいシーンは手書きして、プロット上必要だけど面白くするのは難しい展開をAIにまかせることで、途中で投げ出すのを抑止するという話ですね。
— 長谷敏司 (@hose_s) 2023年12月27日
AIに作らせて加筆ではなく、手書きでのリビドーのビジョン化ありきです。 https://t.co/FDdJK7B7WP
>>AIに作らせて加筆ではなく、手書きでのリビドーのビジョン化ありきです。
僕の理想とするAIの使い方はまさにこの通りで、ここから派生した引用RTやご本人による返信も貼るのだけど、
本当に「生産性」なのかは謎。
— あしやまひろこ (@hiroko_TB) 2023年12月28日
読まれるくらい面白い作品なら生産性だけど、誰にも読まれない作品なら、単なる資源と電力とストレージの無駄遣いでしかない。 https://t.co/CRFtklQVOL
>>誰にも読まれない作品なら、単なる資源と電力とストレージの無駄遣い
この手の、端的に言ってくそな感想も無視できないほどには数あって(面白さや生産性なんかに僕らの愚行権は侵害されない)、しかし長谷敏司本人からはわりと重たい回答が来ている。
専門学校で講師を5年ほどしていた経験からの感想ですが。
— 長谷敏司 (@hose_s) 2023年12月28日
「ものづくりに呪われる」ことはわりとある。その反面、1年間のコースで、長編を1本書き切れる人は、クラスで半分以下だったりする。
社会にとっての生産性ではなくても、本人にとっては、1本書くことで救われることはあるんじゃないかと。 https://t.co/IfAsn3NL8F
>>「ものづくりに呪われる」ことはわりとある。
>>社会にとっての生産性ではなくても、本人にとっては、1本書くことで救われることはあるんじゃないかと。
僕が5年近く作っている音MADについては、幸運にも作品がちょっぴりバズったり、以前から大好きだったクリエイターさんから褒められたりして、今でこそとことん満たされていながらも、それ以前(音MAD駆け出しの頃)は同世代に凄腕の作者がたくさんいたこともあり、「自分もなにか作らなければ」という焦燥感を、技術もその磨き方もわからないままに抱いていた時期が確かにあった。
当時、2021年頃まではまだあまりAI技術の波が音MADの界隈に来ていなくて(実装のすげーだるいspleeterがあったかな、程度)、例えば2024年11月現在、かつての自分のような悩みを抱えている音MAD作者には楽曲のボーカルをぶっこ抜いてくれたり、何ならstem単位まで分割してくれるUVRというフリーソフトがあるわけで、言うまでもなくこれはAI技術を用いたツールである。では、UVRを制作過程で用いた音MADはStable Diffusionで「生成」したイラスト同様、忌避されているのだろうか。いや、今のとこそんなことないし、そもそも制作の一過程にすぎない音源の分割について、AIを用いたかそうでないかなんて、完成品を観たところでほとんど区別できない。ではOzoneのプラグインによってマスタリングされた音楽は。DLSSやFSRによってフレーム補完のなされたモンハンワイルズは。いずれも気持ち悪さを抱く人の数は、AIの出力するイラストに比べてずっと少ないように思える。
もっと踏み込むなら、たとえば完全に人間の手で作られているイラストでも、いわゆる「マスピ顔」に限りなく近いような、容易にシミュラークル化されるものを見て、僕らは非AIだと断定できるのだろうか。画像はピクセルの集まりであり、ピクセルの色はRGBのようなカラーフォーマットに基づいて数字で表現される。それらを文字通り「観る」ことしかできない僕らの目では、たぶん、AIと非AIの作品をヒューリスティックに区別するのはほとんど不可能と言っていいし、言い換えるなら、僕らが持つAIへの忌避感は、正確にはAI「らしさ」への忌避感である。
つまり、AIに抱く「気持ち悪さ」なんて恣意的だし信頼できないし、結局僕らはほどほどにAIに頼っていった方が幸せになれるのではないだろうか(あるいは、そうせざるを得ないというべきか)。それこそ、僕のように障害を抱えて生きる人間や、親が犯罪に加担してしまって心に傷を負った人間だって「ものづくりに呪われる」可能性はみんなあるわけで、AIの手を借りて「呪い」から逃れられる、すなわち創作行為のハードルが大きく下がるのであれば、単にありがたい話だと思う。AI義足で再びステージに立とうとした護堂恒明のように、どんな事情や困難があろうと、僕らがみんな簡単に創作や表現をやれるようになったら、少しだけ世の中が楽しくなるかもしれない。