タイトル『空間はいかに目的化されるか――芸術作品から都市空間まで――』
一般に、我々が「芸術」と聞いて連想するのは、彫刻であったり絵画であったり、具体的な物体として形を持つ作品群であろう。しかし、人間の意図や認識によっては、空間そのものや空間でなされる行為までもが作品になりえる場合がある。本稿では、シラバスで指定されたテーマのうち、空間の認識(都市空間、住居など)について、日本国内の芸術作品や文化、都市を例に「空間の認識」によってどう空間の目的が規定されるかについて論じる。
現代美術において、「インスタレーション」という表現手法がある。1970年以降に発展したジャンルで、作者が展示室などの空間そのものを作品として装飾し、鑑賞者はそこに入ることによって意図や作為をインタラクティブに体験することができるというものだ。例えば、札幌で生まれ育った私は「札幌市青少年科学館」という施設を訪れたことがある。そこで観た(あるいは「体験」した)「ななめの部屋」(1)は、床が15度傾いている一方、柱や壁は床に対して垂直に設置されており、我々鑑賞者が入り込むことによって平衡感覚に違和感をもたらすというコンセプトの元に成立している作品で、まさにインスタレーションと言えるだろう。
インスタレーションにおいて、空間は作者によって意味を規定され、鑑賞者はそれを体験し、享受する。その一方で、本来空間とは無限の多目的性を持つはずだ。例えば、先述した「ななめの部屋」も、そこが「ななめの部屋」として設計されておらず、トイレとして作られていたらトイレになっていたはずで、あるいは喫煙所として作られていたら喫煙所だった可能性もあり、あるいは札幌という都市が人間によって開発されていなかったら、そこは雑草が生い茂る平原だったかもしれない。気候のような自然的条件を除けば、空間とは基本的に均質であり、人間の認識や目的によって意味を変えていく。
この原則はインスタレーションに限らない。我々は普段、いきなり街で歌い出したり大声を出したり、踊りだしたりしないだろう。そんなことをすれば通行人の迷惑になってしまうし、街の条例に反するかもしれない。程度によっては罰せられたりするかもしれない。しかし、カラオケでは大声で歌ってもよいし、ダンスホールでは踊ってもよい。なぜなら、その空間が「歌うため」、「踊るため」に設計されているからである。カラオケやダンスホールで我々がトラブルを起こさずに歌ったり踊ったりできるのは、このように目的の限定された空間が我々の行為を保証してくれているためだ。
そうした点で、都市とは、数多の目的によって作られた大量のセグメントから成る空間だと捉えることができる。JR札幌駅の西口には紀伊國屋書店があり、少し進むとセブンイレブンやカラオケ歌屋、パソコンショップのドスパラが見える。いつも歩く街並みを眺望するだけで、全く異なった目的のもとに設計された建物がずらっと並んでいるのがわかる。駅、本屋、コンビニ、歌うために防音がなされたビル、ややニッチなパソコンパーツを売買できるビル、これらひとつひとつが所狭しと横に並び、札幌の土地を物理的な壁で隔て、地方都市という空間をピクセル的に埋めていく。都市を構成する小さい単位という意でピクセル的と表現したが、実際には空間の最小単位はもっともっとミクロだ。
私は今、デスクトップパソコンに接続したキーボードで本稿を書いている。パソコンは精密機械であり、決して水にさらしたり、強い衝撃を与えたりしてはならない。しかしこの原則は、micro-ATXというパソコンサイズの規格によって設計された、244mm×244mmの小さな空間、およびその周辺にのみ適用されるもので、その外側ではシャワーを浴びてもいいし、一日の終わりにストレッチをしてもいい。空間が目的によって占有されたり、多目的性を限定されたりすることは、ときに規模の大小すら問わず起こり得るのである。
(1)https://www.ssc.slp.or.jp/exhibition#paragraph_101_1704952581
※本記事は、大学の課題で書いたレポートを一部改稿の上で公開しています。