空回り

noteはもう使いません

無題(4/13)

勉強すればするほど、様々な価値観や視点を持てば持つほど人の差別や偏見に対する感度が高くなっていく感覚がある 最近はこのことに苦しめられていて、他者の言葉や文章をただ受け取っているだけで世間に広く共有されているスティグマを否が応でも感じてしまうこと、それを誰とも共有できないことに対して強烈な苦痛や孤独を感じる 表現のあらゆるところからそれを発した者の価値観は見え隠れするし、えてしてその中に自分みたいな落ちこぼれは考慮されていない

 

あまりに抽象的すぎる文章だから、一つ具体例を提示しようと思う

例えば、いわゆる「女性らしくない」女性、「男性らしくない」男性は、ときにこんなんじゃ一生恋愛/結婚できないよ といったアドバイス(文脈によっては侮蔑)を受けることがある ここで、このアドバイスにはいくつかの隠れた前提がある

第一に、恋愛、結婚といった(主にヘテロ的)性愛をイニシエーションとしていること 第二に、そうしたイニシエーションを通過した人間はそうでない人たちよりも優れているということ この二つの前提があって、初めて先の表現はアドバイスという意味を持つ

こうした偏見を伴う前提、無意識のうちにある差別に対する感度が勉強量に伴って上がっていくのが辛くて仕方ない、ってこと

 

かといって、人に倫理的な振る舞いを求めることができるほど僕は立派な視点を持っているわけでもない(その視野は必要条件じゃないにせよ) どうしたらいいんだろうと思う